ル・コルビュジェ 1887-1965

corbusier

ル・コルビュジェ 
Le Corbusier
(1887-1965)

コルビュジェはフランスの建築家です。20世紀の近代建築を代表する巨匠の一人ですね。フランスの建築界はボザールが支配的ですが、彼は反ボザールの立場を取り、常に逆境の中で新しい試みに挑戦しています。従ってコルビュジェは自分自身をセールスすることに熱心でした。設計競技への参加、雑誌の発行、多くの本の出版、展覧会や会議の企画、関係各所への売り込みなどすべては自分のアイディアを発表し実現する場を求めての行動だったと考えることができるでしょう。

そのことを物語るエピソードです。大戦中パリはナチスドイツに占領され、フランス政府は傀儡政権をヴィシー Vichy という地方に置いていました。52歳だったコルビュジェはパリからヴィシーに引越して協力を申し出ています。これはヒットラーを認め、フランスを裏切る行為と思われても仕方のないものでした。またイタリアのムッソリーニにも接触していたようです。仕事を取るための、こうしたなりふり構わない行動は、彼の大切な実務のパートナーだったピエール・ジャンヌレとの訣別をもたらしています。

彼の建築活動の大きな特徴はピカソのように時代ごとでスタイルを変えていったことです。四角い箱から造形的な彫刻へ、建築の表現を変化させたのです。コルビュジェは都市計画にも多くの提案をし、晩年はインドの新都心の計画を実行に移すことに成功しました。また画家としての一面もあり、午前中はアトリエで絵を描いていたようです。フェルナン・レジェ風の油絵を多くのこしています。コルビュジェ自身は芸術家でありたいと思っていたのですね。

30歳のときパリに上京し、3年後に「ル・コルビュジェ」を名乗るようになりました。同時に雑誌「エスプリ・ヌーボー」を創刊しています。コルビュジェとはコルボー=からすの事です。"鳥"に憧れる芸術家、しかしそれは嫌われもののからす。自らそう名乗った彼は、本名をシャルル・エドゥアール・ジャンヌレといいます。丸い眼鏡が印象的ですが、実はパリに上京した翌年左目を失明しています。この逆境から立ち直るために本名を捨て「ル・コルビュジェ」を名乗ったのかもしれませんね。また42歳のとき結婚し、フランス国籍を取っています。彼はスイス人だったのです。奥さんは平凡な一般人です。生涯を共にし今でも同じ墓に眠っています。彼の死因は地中海での水死でした。8月27日午前11時頃。77歳。スイスの山で生まれ、地中海の海で終わった人生でした。本日10月6日はル・コルビュジェの誕生日です。

コルビュジェはスイスのフランス語圏ショー・ド・フォンという小さな町に生まれました。本名はシャルル・エドゥアール・ジャンヌレです。父親は時計職人、母親は音楽家でした。母親は100歳まで健在だった気丈な女性でコルビュジェの人生全体を見守っています。

ショー・ド・フォンはスイスの時計産業の中心地の一つでしたが、フランスからの亡命者の地でもあったようです。ジャンヌレ家も元はフランスに住む一家で、カタリ派というキリスト教の異端とされた一派に属していたため、スイスのこの地に亡命したようです。

コルビュジェは地元の美術学校で装飾工芸を学びます。10代の彼はスイスの田舎者でしたが、レプラトニエという良き恩師がいました。コルビュジェが建築家を志したのは、この恩師の指導だったとされています。

20代前半はコルビュジェの修行時代でした。建築家事務所で実務をおぼえ、「東方旅行」によってギリシア・ローマの建築に感動しています。パリのオーギュスト・ペレとベルリンのベーレンスの事務所で働きました。そして卒業旅行として東欧からバルカン半島を経てアテネイスタンブールを周り、イタリアへ至る「東方旅行」を半年かけて行いました。

半年の「東方旅行」から帰国したコルビュジェは25歳になっていました。そして故郷のスイスで建築事務所をひらきます。同時に恩師レプラトニエの依頼で母校の教員となります。1912年のことでした。この頃のコルビュジェは地元で住宅の設計を手がけたり、音楽家や画家と文化振興活動をしています。彼の母親や兄は音楽家でしたから、こうした活動は自然なものだったのでしょう。

そして第一次大戦が始まった1914年、コルビュジェは「ドミノ」のアイディアを考案しました。フランス政府が荒廃した都市の復興を計画していたことを受けて、新しい建設技術であった鉄筋コンクリートを用いた建築方法を彼は考えたのです。「ドミノ」の特徴は量産可能な点です。しかし関係各所への売り込みは失敗し、特許の取得もできずに終わりました。とはいえ「ドミノ」のアイディアはその後、近代建築の雛形といってもいいほど決定的なものとなりましたね。

その後、まだ第一次大戦が終わらない1917年にコルビュジェは故郷のスイスを離れ、パリに定住し始めます。30歳の時です。最初の5年間は経済的に苦労の時期だったようです。パリ郊外でブロックを作って売ったり、土木会社のコンサルタントや軍需物資のブローカーなどをしています。また網膜剥離で左目の視力を失う苦難にあいました。

しかし生活は苦しくても創作活動は活発に行っています。友人と「エスプリ・ヌーボー」という雑誌を創刊したり、「ピュリスム」宣言に加わって絵を本格的に描き始めたりしています。この時代のコルビュジェはオザンファンという画家が第一の友人だったようです。

また一方で、スイスの銀行家ラ・ロシュと知り合い目をかけられています。彼は貧しいコルビュジェの創作活動を財政的に援助しました。出版の費用を出したり、彼の描いた絵を買い上げたりしています。一方でコルビュジェピカソやブラックなどの将来巨匠となる画家の作品を購入するアドバイスをラ・ロシュにしています。

30代前半のこの時期、コルビュジェは建築家としても倉庫や工場、屠殺場などの設計を手がけていたようです。

ル・コルビュジェ」というペンネームを使用するようになったは1920年に発行を開始した「エスプリ・ヌーボー」の創刊号においてでした。つまり「ル・コルビュジェ」は物書きとしてのペンネームだったのですね。33歳の時です。

ル・コルビュジェは「エスプリ・ヌーボー」で都市計画の提案も行いました。まだ実作の少ない頃です。自分の立場を世の中に表明する意図があったのです。

「住宅は住むための機械である」という彼の言葉は、自動車が工場で量産されることに着想を得たものです。そして自動車=機械に対比されるものとして、モノル、シトロアンといった住宅のプロトタイプを考えました。また同時期に「300万の居住者のための現代都市」を発表します。フランス式幾何学庭園のようなきれいなドローイングが印象的ですが、何の実績もない若い建築家には出過ぎた提案として受け取られたようです。35歳の時でした。

さて、コルビュジェは1922年、35歳のとき従弟のピエール・ジャンヌレとともに建築事務所を設立します。いよいよ実作を世に問う段階に入ったというわけですね。2人の役回りはピエールが事務所に居て実際の設計業務を行い、 コルビュジェは外で幅広く活動するといった感じでした。そして、第二次大戦までの約18年ほどの間、コルビュジェの建築作品は2人の共同設計として発表されました。

この時代の代表作にはエスプリ・ヌーボー館(1924)、サヴォア邸(1928)、輝く都市(1930)、アルジェの都市計画(1931-1942)などがあります。また建築家の国際会議CIAMを開催したり、引き続き出版活動も活発に行っています。それから1930年、42歳のときイボンヌ・ガリと正式に結婚しスイス人からフランス人になりました。フランスの市民権を得たのですね。一方、彼個人の政治的な活動もあったようです。サンディカリズムの思想に共感し、イタリアのムッソリーニに接近したという記録が残っています。労働者を中心に据えた社会のあり方を模索していたことが伺えますね。

1940年、ドイツ軍がパリを占領しました。フランスはヴィシーという地方都市に暫定政府をつくりペタン将軍が元首として国家を代表するという非常事態になってしまいます。こうした戦争下の切羽詰まった状況で、エドアール(コルビュジェの本名)とピエールの考えは衝突し、2人はそれぞれ別の道を歩むことになりました。ピエールはフランス南東部のまちグルノーブルでドイツに対するレジスタンス活動に加わります。エドアールはあくまでコルビュジェとして、建築家としてあろうとしました。ペタン将軍に申し出て住宅建設や都市開発の助言をしたり、アルジェの都市計画、絵画制作やモジュロールの考案などを行っています。

1944年、パリはドイツ軍から解放され、翌1945年8月、戦争が終わりました。コルビュジェ57歳のときです。

これから20年間が彼の巨匠時代です。

まず戦後復興の一環としてマルセイユにユニテ・ダビタシオンを設計しました。政府からの発注です。建設に時間がかかったようですがフランスでは初めての公共建築です。同時期、ニューヨークに国連本部を建設する計画に参画しています。また個人的な研究としてモジュロールを発表します。

モジュロールは黄金比をベースにしたデザイン原基です。推測ですが、コルビュジェはモジュロールが戦後復興の生活物資量産体制の中で威力を発揮することを期待していたかもしれません。戦争で生活基盤を失った多くの国民には、身の回りの必要なものを早く整えることが先決だったでしょう。しかしそこにわずかでも美の心があるべきだとコルビュジェは思ったような気がします。芸術一家出身の彼らしい発想ではないでしょうか。

1950年、ロンシャンの礼拝堂を設計し、5年後ノートルダム・デュ・オーとして完成します。20年以上前に手がけたサヴォア邸から見ると普通の建築家ではあり得ない転身でした。

1951年、インドのチャンディガールの都市計画を依頼されます。パンジャブ州政府の依頼でした。これによってコルビュジェは本格的な都市計画を実現する機会を得たのです。幾つもの建築物や都市施設を設計し、それらは建設に移されました。この頃、けんか別れした従弟のピエールが再び戻ってきて、彼に協力していたようです。

1955年には日本を訪れ、上野に計画された美術館の敷地を見学しています。日本政府が設計を依頼したのですね。この時、坂倉準三氏、吉阪隆正氏などの弟子と再会しています。坂倉氏は戦前、吉阪氏は戦後にパリのコルビュジェの事務所で働いていたようです。

第二次大戦が終わった1945年8月からちょうど20年後の1965年8月にコルビュジェは亡くなりました。享年77歳。5年前に母を、8年前に妻を亡くし孤独な老人として死んだのです。子供はいなかったようです。アンドレ・マルローが葬儀委員長を務めるフランスの国葬が執り行なわれました。墓は故郷のスイスではなく、南仏のカプ・マルタンの丘にあります。地中海を見下ろせる景色のいい墓地です。