01 ブログ再開 クセナキスによるル・コルビュジェの熱い思い出とともに

ken1062014-10-06

ル・コルビュジェの誕生日は1887年10月6日、場所はスイスのLa Chaux-de-Fonds。
10月6日に始めたこのkenちく小考。再開しようと思う。

現在の日本は大変な状況にある。建築やまちを考え、つくるための土俵自体が刻々と変わっている。この難しい時期、20世紀に大きな仕事を成し遂げたコルブを思い出して挫けず進まねばならない。

コルブは生涯を通して精力的に活動した人間だ。中でも第二次大戦中の熱血ぶりは印象深い。パリがドイツ軍に攻撃され陥落、占領されてしまった時、彼は田舎への疎開を余儀なくされた。それでもヴィシーに設けられた仮の政府に彼は都市計画を売り込んだ。無二のパートナーだった従兄弟のピエール・ジャンヌレと喧嘩別れもした。ピエールは建築よりも反戦を選んだのだった。

この写真は戦後のものだ。コルブの横で顔が見えているのが当時フランスの復興大臣だったクロディウス=プティ。仕事がなかった彼に最初に大きなオファーをくれた人物だ。コルブは彼のおかげでマルセイユにユニテを実現する機会を得た。

以下はクセナキスによるル・コルビュジェの熱い思い出。

今となればぼやけてしまっている最悪の日々と、そして最良の日々とを彼とともに仕事にいそしんできた者たちにとっては、彼のやり方は一つの典礼、秘められた転換であった。寸法の比率も空間の力も機能も素材も光も技術も、すべてが相互に依存しあいながら、ほんのちょっとした時間のうちに自分の道を少しずつ見出だしていった。

そうした場面に居合わせた者はその速さ確かさ、めまぐるしい変転、たえまない修正、ありのままの身振り、必然的な最終結論にしばしば目をみはったものである。

たえず問題にしなおす態度というものは、学校では教わることのできない特徴的な性格である。天性の独学者である彼は、いつ何時も、あらゆる過程において、「建築家様」が演じる紋切り型の姿勢、時代がかった対応、偉そうな態度に対する徹底的な敵であった。

彼の真価は、あれやこれやの問題に対する局部的な解決のうちには、たいして認められない。そうした解決策は20世紀において人類が途方もなく発展拡張したために滅びゆくしかないのである。

1956年頃、彼はわたしに微笑みながら語ったものだ。すべてがあまりにも早く進んでいる。今やもう私は地面の下にはいるべき時だ、と。

彼の真価は、彼が構想した作品群そのものによって、ひとりの特別な人間の性格と気質と知性の延長を通して、認められるべきである。

彫刻にしろ、建築にしろ、絵画、数学、音楽、科学、、、、にしろ、人々の手が作りだしたあらゆるものにおいて、それらを透かして浮かび上がってくるのは、まさに人間なのだろう。つまり「芸術作品」とは深遠な象徴記号なのだ。