様式の起源 2004.12.09

アテネ発掘

古代遺跡の発掘現場の様子です。このような遺跡の発掘調査によって建築様式は塗り替えられていきました。現在の建築様式が実際に「様式」として確立されたのは18世紀の末頃です。この時、すでに様式の展開は終わっていました。というのは、バロックロココといった時代を代表する新しい意匠がもう現われなくなっていたのです。そして、残された道は、過去の様式を調査して、考古学的に正確なデータを整備することでした。我々が知っている建築様式はこうした膨大な調査と研究の末に手に入れられた精巧なものです。きれいにまとめ上げられた意匠カタログですね。
過去において建築様式はフィクションでした。たとえばピラネージの版画に描かれた古代ローマの建築物にその例を見ることができます。ピラネ−ジは古代ローマの遺跡を題材にしたすばらしい版画を多く作製しましたが、多くの部分は彼の想像力で補われていました。彼のドローイングにはフィクションの部分があったのです。当時は発掘も十分なされていませんでしたし、手に入る文献からでは壮大な古代ローマの建築物をイメージできなかったのです。そんな状況で、ピラネージの版画は迫力に満ちた「ローマ建築」を見事に再現していたのです。帝都ローマの壮大な情景を遺跡の断片から彼はイメージしたのですね。しかし当然、考古学者などから不正確さを指摘もされています。
古代建築の原点はギリシアですね。ギリシア様式の確立はより多くの困難を伴うものだった様です。ローマにくらべて、例えば18世紀のギリシアオスマントルコ帝国の支配下にあり容易に発掘調査できる環境にありませんでした。アテネアクロポリスは荒れ果て、パルテノン神殿はトルコ軍の武器庫にされていました。爆撃で神殿の一部が失われたという悲惨な話があります。しかし18世紀末になるとロシア軍が帝国内に侵攻するようになり、帝国の支配力は弱まっていきました。トルコ帝国の敵だったロシアはドイツとは敵対していましたから、ドイツにとってトルコ帝国は友好国ということになります。したがってドイツ人ならば帝国の領内に入ることが容易だったのです。こうした状況で、ドイツ人考古学者ヴィンケルマンはギリシア建築の発掘調査を行い、大きな成果をあげることができたのです。当時、建築家や考古学者は建築様式の原点をギリシアに求めていましたから、ヴィンケルマンの研究は大きな関心を集めました。ギリシア美術の歴史は彼が作ったといわれる程、多大な影響を与えたようです。
またこの時代、ヨーロッパ各国は美術館ラッシュでした。国の威信をかけて立派な美術館を建設し、それを一流国の証として公開したのです。大英博物館やベルリンの国立博物館などはこの時代に設立されています。イギリス、ドイツ、イタリア、フランスなどの列強国は自国の美術館にギリシア美術のコレクションを納めるため、現地で発掘した彫刻や建物のレリーフなどを争って持ち帰っています。またお互いの国にあるコレクションの争奪戦が繰り広げられました。ナポレオンはイタリアを占領すると、躊躇することなくギリシアの美術品をフランスに持ち帰っています。また、英国貴族のエルギン卿はパルテノン神殿を飾っていた多くの彫刻やレリーフをトルコ帝国と掛け合ってロンドンの大英博物館に持ち帰りました。しかし、今日、我々がロンドンやパリでギリシア彫刻の実物を見ることができるのは、イギリスやフランスのこうした行為があったからなのですね。