代々木体育館の「道建築」

「いくつかの経験」丹下健三 より

代々木国立屋内総合競技場のふたつの体育館と、渋谷駅、原宿駅のそれぞれは、道建築と呼んでもよいようなものによって構造づけられて、ひとつの有機体となっていますが、またこの道建築は、コミュニケーション空間として、人びとが参加して行く空間でもあるといえます。

東京計画−1960 その3

「いくつかの経験」丹下健三 より

そこはまた、コミュニケーション・スペースとして人びとが参加して行くチャンネルでもあるといえます。そういった構造をつかまえて行かなければ、ひとつの建築や建築群といえども、特に都市空間では、なおさらのことつかまえきれないのではないかと考えるようになってきました。

とくに「東京計画ー1960ーその構造改革への提案」は、私たちにとって都市に対する機能的アプローチから構造的アプローチへの転換の最初のものであったといえます。ここでは東京を、総体としてその内部におけるモビリティーつまりコミュニケーションのシステムーによってその構造を捉え、その構造を閉塞的求心型の現状から開放的線型への構造改革の必要を強調したものでありました。そうした構造的アプローチから生まれてきた都市軸というひとつの構造概念は、かなり普遍性をもった概念となってまいりました。それはまた都市軸を幹とする成長可能な構造でもあります。

東京計画ー1960で提示された構造主義的方法論はもちろん、生な、また堅い形でしか表現されておりませんが、単に都市的スケールにとどまらず、アーバンデザインのスケールと建築のスケールにまで及んでおり、その後の私の建築やアーバンデザインに大きな影響を与えることになったように思います。

建築や都市を考える場合、その機能単位の固有性を表現することは、つまりアイデンティファイするということは、いかなる場合でも必要なことだということは前にも触れましたが、こうした機能単位を構造づけることが、私たちの操作のなかでより重要なことに思われてまいりました。

東京計画−1960 その2

「いくつかの経験」丹下健三 より

東京に帰るとすぐ世界デザイン会議に参加し、それにひきつづいて世界保健機構のジュネーブ本部の指名設計競技をやり、また東京計画ー1960に丹下研究室で半年ばかり没頭したことは、私たちの問題意識と方法をより明確にし、またそれを視覚化する上で大変貴重な経験でありました。


日本デザインコミュティのメンバー


世界デザイン会議でボストン海上計画を発表

私たちはそのアソシエーションとかクラスターという、表現としてしか捉えられていなかったような問題を、もう少し一般化してつかまえてみたいと思いストラクチャという概念を導入してきたわけです。恐らく言語学的な構造論が、そういった考えの中に入ってきたのだと思いますが、要するにいろいろな意味で建築とか建築空間とか都市空間というものは、ストラクチャあるいは構造をもっているのではないかと感じはじめたわけです。

ストラクチャにもいろいろな次元があって、力関係のフィジカルな意味でのストラクチャもあり、また、その中で物事が関連づけられて行くというようなフィジカルな場のものもあります。あるいは、その空間を体験する中でのアソシエーションとしてのストラクチャもあります。空間そのものがひとつのメッセージを人々に放つ場合、その放つメッセージを文章にたとえれば、その“て・に・を・は”を与えて行くことでもあるわけです。

東京計画−1960 その1

「いくつかの経験」丹下健三 より

CIAMの第10回会議ー1959年ユーゴスラビアのデュブロブニクで開かれたーのころからすでにCIAMの思想と方法論に反省が現れはじめました。このCIAMは外の敵と戦わなければならなかったのですが、現在のCIAMの戦いは内に対してはじまっているのです。そうしてCIAMを正しい方向に再建し、再組織するための委員としてスミッソン夫妻、バケマらがこのCIAMで選ばれました。


Alison Smithson Peter Smithson

あとで彼らのグループをチームXと呼ぶようになったのですが、彼らからの連絡がしげしげとやってくるようになったのは1959年に入ってからでした。彼らは1959年の秋に、新しいCIAMの会議をオランダのオッテルローで開く準備をはじめておりました。そこで、アソシエイションとかクラスターとかモビリティといった概念が語られるようになりました。


Otterlo Netherlands September 1959

また、日本でも1957年ごろから建築、インダストリアルデザイン、それとグラフィックデザインの幅広い層で1960年を目標に世界デザイン会議を開く準備をはじめましたのは、こうした問題意識の転機にあったからだといえましょう。こうしたデザイン会議の準備を通じて多くの友人たちと話し合う機会をもつことができたこと、またオッテルローの会議に出席してチームXの仲間たちやルイス・カーンなどと会う機会をもったことは、私たちの問題意識をより共通なものとし、またよりリアルなものにするのに役立ったように思います。

そのすぐあと、ヨーロッパからアメリカに渡り、MITで4ヶ月に渡って、そこの5年学生とボストン湾上の25,000の人のための住居単位の研究をしましたが、それはひとつには、そのころ私が考えはじめておりました東京計画ー1960へのひとつの準備でもあったのです。

そこで成長と変化、長期のサイクルと短期のサイクルの結合方法、メイジャー・ストラクチャーとマイナー・ストラクチャーの組織づけとその取りかえのシステム、ヒューマン・スケール、さらにスーパー・ヒューマン・スケールにいたるシークエンシャルな構造づけ、さらに都市的コミュニケーション空間の建築への浸透、建築内部のコミュニケーション・スペースの組織づけなどといった問題を、自分なりに明らかにして行くのに、雑務から解放されたボストンでの4ヶ月は大変役に立ったように思います。