ボッロミーニ

borromini

ボッロミーニ 
Francesco Borromini (1599-1667)

ボッロミーニはスイス生まれのイタリア人建築家です。バロック建築の傑作を残し、ライバルのベルニーニとともにバロックの最盛期をつくった一人ですね。

彼はアルプス山脈に近いルガーノという石の産地に生まれました。父は建築家か棟梁か、やはり建物をつくる仕事に従事していたようです。その父はミラノの貴族に仕えていたことがわかっています。

ボッロミーニは10代から20代を石工職人として過ごしています。ミラノにある工房に弟子入りし、大理石を刻んで装飾をつくる技術を習得しました。

そして20代前半に転機が訪れます。ローマで建設中だったサン・ピエトロ大聖堂の仕事に参画するチャンスを得たのです。彼はローマに移り、主任建築家だったマデルナの下で仕事を始めました。実は、マデルナはボッロミーニの遠い親戚だったようです。当時彼は70歳をこえていました。

マデルナはボッロミーニの才能をすぐに認め、信頼する助手として多くを任せるようになります。「ボッロミーニ」という名はこの頃から名乗りはじめました。建築家ボッロミーニの誕生ですね。

30歳になるころ、マデルナの死去に伴ってサン・ピエトロ大聖堂の現場に新任の建築家がやってきました。それがボッロミーニの生涯のライバルとなるベルニーニだったんですね。

ベルニーニは彼とほぼ同じ歳ですが、職人あがりのボッロミーニと対照的に貴族の出身で、若いうちからローマ法皇の面識を得て、法皇の信任厚い建築家となっていました。2人の天才は4、5年で対立するようになってしまいます。結局、ボッロミーニは小さな教会の仕事を得てサン・ピエトロ大聖堂の現場から出ていきました。

この「小さな教会」こそがバロック建築の最高峰となるサン・カルロ聖堂ですね。

彼にサン・カルロ聖堂の設計を依頼したのはスペイン系の修道会です。ボッロミーニが長い職人時代を過ごしたミラノは当時スペインの支配下にあったので、彼がスペイン系の修道会と関係があったのは自然なことです。

ボッロミーニはこの仕事に打ち込み、才能を発揮して非常に密度の濃い「作品」を生み出しました。このサン・カルロ聖堂の成功によってボッロミーニの以降の仕事は、この傑作の名声を聞きつけてやってくる彼のファンからによるものがほとんどとなります。

ボッロミーニのポリシーは、自分のデザインをあらゆる細部を通して、建築物全体にゆきわたらせることです。これを徹底して追求しました。この姿勢はバロック建築に非常にふさわしいものと言えますね。

ボッロミーニの人物像はちょっとゆがんでいます。きわめて芸術家気質が強く、天才と狂気の紙一重的な性格だったようです。食事は簡素、部屋は本で埋まり、仕事場は模型であふれていたと言います。生活に余裕があるタイプではなかったようですね。

ボッロミーニの生涯は自殺で閉じます。自分の死後、誰か他人がアイディアを盗みかってに変更して使うのを恐れて、手元にあった全てのスケッチと図面を自ら焼き捨ててしまいました。