ルドゥー

ledoux

ルドゥー 
Claude-Nicolas Ledoux (1736-1806)

ルドゥーはフランスの建築家です。王室に出入りする大御所でしたが、53歳のとき起きたフランス革命で失脚し、晩年は著作活動のみを行いました。

その時代に書いた本によってルドゥーは「幻視の建築家」と見なされていますが、実際は王室建築家として多くの実作を残しています。ルドゥーは死後、その存在を忘れ去られていましたが、近代建築運動の中で再発見されました。

その契機となったのは、ルドゥーが残した多くの興味深いドローイングです。そこには建築形態を幾何学的に還元し、ヴォリューム感が透けて見えるデザインを見ることができます。こうした「幾何学的な還元」「ヴォリューム感」など近代建築のエッセンスがルドゥーのドローイングに早くも存在していたのですね。

ルドゥーは中産階級の出身です。パリ郊外にあった学校を中退して、最初、版画を学びました。そして、建築家ブロンデルの私的な芸術学校に入学します。ここで建築家としての専門教育を受けました。卒業後、さらにトゥルアールの事務所で実務を学びました。ルドゥー20代前半のことですね。

彼が建築家として独立したのは20代後半の時です。その頃は小さな教会や住居などを手がけています。彼の作品は古典建築に独自のアレンジを加えた様式のルールにとらわれないものでした。周囲はその才能を認めていたようです。

ルドゥーの作品は一般に「新古典主義」の中に位置づけられています。また「幻視の建築」という視点から近代建築への関連性も指摘されていますね。

ルドゥーに転機が訪れたのは34歳のときです。国王ルイ15世の妃だったデュ・バリー夫人がルドゥーの才能をみそめたのです。ルドゥーは彼女の愛顧を得て一躍世に知られる建築家となりました。

このデュ・バリー夫人という女性は下層階級の出身であったにもかかわらず、天性の気だてのよさと美貌で国王の妃にまで出世した女傑ですね。

ルドゥーはデュ・バリー夫人の後ろ盾を得て、劇場や集合住宅など大きな仕事を得ることができるようになりました。王室の仕事の中では、パリ市を囲む城壁の門と徴税施設がルドゥーの作品として主要なものとなりました。

しかし、これらの建設費は国家の財政を切迫させ、ブルボン王朝崩壊の要因となっていきます。ルドゥーには市民を苦しめる徴税施設の建築家の烙印をもたらしました。

1789年6月、バスティーユの牢獄が襲撃されてフランス革命が勃発します。しかしルドゥーは2年近く放置されたため仕事を続けることができました。そして、やがて投獄されましたが数年で釈放されています。デュ・バリー夫人はルドゥーが監獄にいる間に処刑されてしまいました。

ルドゥーは釈放後、パリの片隅に隠棲します。そして70歳で亡くなるまでの約10年間を孤独に暮らしました。墓所の場所は分かっていません。