パッラーディオ

palladio

アンドレア・パッラーディオ 
Andrea Palladio (1508-1580)

パッラーディオはイタリアの建築家です。多くの名作を残し「建築四書」を書いてその名を文化芸術界にとどめました。パッラーディオの名は建築の世界にとどまりませんね。彼の建築は「古典建築」のお手本です。

アンドレアはパドバで生まれ、ビチェンツァで育ちました。父は粉ひき職人です。13歳で石工の工房にでっち奉公に入り、30代になるまで石工職人として過ごします。

その後、イタリア貴族のトリッシノに見いだされ彼の運命が変わります。アンドレアが建築家「パッラーディオ」になれたのはトリッシノのおかげでした。

トリッシノという人物はローマ教皇の信任を得てドイツ大使などを勤めたこともあり、当時名の知れた貴族でした。トリッシノは学識豊富で、イタリアの人文主義者と言える人物ですね。パッラーディオより30歳年長です。

トリッシノは石工だったアンドレアをパドバやローマで教育します。書物を与え、遺跡の調査に同行させ、知人の貴族たちと議論させて、職人の身分では手の届かない高度な知識と経験を授けたのです。さらに将来クライアントとなる人々を紹介しました。「パッラーディオ」という名はトリッシノが付けたものです。

パッラーディオは温厚で性格がよく、人付き合いも良好だったようです。彼はベネト地方に広がる穀倉地帯を舞台に貴族のヴィラを数多く手がけました。

そうしたヴィラは主にベネチア貴族からの依頼でした。海上貿易にかげりが出ていたベネチアは内陸の開拓にも力を入れていたのです。穀倉地帯となった土地には倉庫や住居からなる貴族の館が必要となりました。パッラーディオはその需要に応えたのです。

トリッシノからの手ほどきを受けて建築家になったパッラーディオは、40代はじめの頃にはビチェンツァ市庁舎の改修工事を任される建築家になるなど、押しも押されもせぬ立場を築きました。それを見届けるかのように、トリッシノは世を去ります。

パッラーディオの優雅で均整のとれた建築は、セルリオやブラマンテが解釈した古典建築の在り方、さらにルネッサンスで蘇った古代ローマの建築様式を直接参照することで生まれたと考えられます。

パッラーディオは「建築四書」という自分の作品集を残しました。ここには実現はしたものの不完全に終わった建物が完成した理想の姿で記録されています。「建築四書」は彼の建築を実際に見に行くことができない人々に「メディア」としての役目を果たし、パッラーディオの名をさらに大きくしたのです。