サーリネン親子

saarinen

サーリネン(父)
Eliel Saarinen
(1873-1950) 

サーリネン(父)はフィンランドの建築家です。ヘルシンキの中央駅などを手がけました。

1922年、49歳の時にアメリカ合衆国に移住しています。「シカゴトリビューン社」のコンペに参加し、アメリカで高い評価を得たことが移住のきっかけだったようです。コンペの結果は2位でした。その後、学校や教会などを手がけています。

「シカゴトリビューン社」コンペでのサーリネン(父)の評価は、高層ビルのあるべき姿を世界で初めて提示したことによるものです。彼の案には、3段階のセットバックや建物のかたちを量塊として扱うなど、まだ誰も具体化できていなかった手法が先取りされていました。

こうした先進性がフィンランドという地方からの応募案に実現されていたことを、当時の建築界は驚きをもって歓迎したといいます。

彼の建築は近代化が進む当時の社会情勢に鋭敏に反応していたことでしょう。「近代建築」をリードできるだけの新しいヴィジョンを持っていたことを感じさせますね。ちなみに、サーリネン(父)はフランク・ロイド・ライトと同世代の建築家です。

サーリネン(父)の母国フィンランドは19世紀からロシア帝国の属国でした。フィンランドは自国のアイデンティティーを希求しながら、近代化に遅れることを懸念していたのです。こうした難しい社会状況のなかで、1904年ヘルシンキ中央駅のコンペが行われ、サーリネンの案が採用されます。

彼の案は地域主義と国際様式をうまく統合し得る優れたものでしたが、大きな修正が加えられ、10年後に竣工しました。この年、いよいよ第一次大戦が始まることになります。

サーリネンは37歳のとき、デザイナーの妻との間に将来建築家として名を馳せることになる一人の息子をもうけています。エーロ・サーリネンですね。

サーリネン(息子) 
Eero Saarinen
(1910-1961)

エーロはヘルシンキで生まれ、13歳のとき家族とともに米国に移民しました。建築家の父、デザイナーの母を持つ芸術色の強い環境の中で育てられました。

パリで彫刻を学び、その後米国のイエール大学で建築を学んでいます。卒業してから父の事務所で実務をおぼえ、1951年父が亡くなった時、自分の事務所をもちました。そのときエーロ41歳。それからわずか10年間という短い建築活動で、多くの傑作を実現してゆきます。残念なことに彼は短命だったのです。

エーロが活躍した1950年代の米国は好景気が続く幸福な時代でした。建設技術の進歩も順調で、鉄筋コンクリートの新たな可能性も実現段階にありました。

こうした背景を受けて、エーロの才能が開花してゆくのですね。彼には彫塑的デザイン気質がありました。鉄筋コンクリートよる「TWA空港ターミナルビル」はその真骨頂を示すものでしょう。この建築はアメリカの勢いを代表する近代建築の金字塔になりました。

大学で知り合ったイームズと組んで家具のデザインも行っています。

エーロの元からは、ケヴィン・ローチのような彼の精神を引き継ぐ優秀な弟子が輩出しました。