13 関東大震災1923

ken1062014-10-21

関東大震災」を引き起こした大正関東地震。写真は震度の分布を示している。オレンジが震度6弱、赤が震度6強、茶色が震度7。震度の分布を見れば分かるように、この大地震は神奈川県が最も揺れたのだ。

発生したのは1923年9月1日土曜日、午前11時58分。

震源相模湾の沖合(北緯35.1度、東経139.5度)(三浦半島の先端から南西へ約20kmの地点)

マグニチュードは 7.9

死者10.5万人。そのうち火災による死者9.2万人(東京で6.6万人、神奈川で2.5万人)。建物の倒壊による死者1.1万人。

津波相模湾沿岸、千葉県の房総半島沿岸に発生した。最高高さ10m。

地震が発生したとき、先頭に立つべきリーダーが不在だった。ときの内閣総理大臣加藤友三郎は8日前に急死していたのだ。加藤は海軍大将から総理になった人物だった。9月2日に山本権兵衛が2度目の総理となって事態の収拾に当たった。ちなみに、阪神・淡路大震災のときは村山富市東日本大震災のときは菅 直人。毎回、頼りないリーダーのときに震災に見舞われるようだ。

9月27日、山本は帝都復興院を設置し、後藤新平を総裁とした。後藤の指揮のもと帝都復興計画が提案された。遷都はしない、予算は30億円必要、土地を買い上げて欧米の都市を範とした理想的な都市計画を行う。こうした基本方針を掲げ力強くスタートしたが、山本内閣がわずか3ヶ月で総辞職。帝都復興院は内務省の外局(復興局)に格下げされた。

したがって後藤新平の帝都復興院が存在したのは実質4ヶ月程度だった。復興局は金と利権にまみれた伏魔殿となり汚職の温床に成り下がった。

震災復興で実現したこと

鉄筋コンクリートの小学校「復興小学校」がつくられた。ドイツ表現主義の亜流、日本の分離派の影響。という感じの良質なデザインだった。

耐震設計における水平方向の地震力が法律に盛り込まれた。

同潤会が設立され、耐震耐火に配慮された庶民住宅の供給が行われた。16の同潤会アパートがつくられた。昨年、最後の1つが取り壊された。

その他、横浜の山下公園、東京下町エリアの道路・インフラ他、色々。