23 戦後の混乱期に浅田孝

ken1062014-11-01

浅田孝 1921.3.19 〜 1990.12.4

「上の人は時間がないんだから厚い資料なんか読まない。一枚でわからせるのがプロの仕事だ。」

「厚い資料を作るのは素人でもできる。」

「5cmで300万、2.5cmで3000万、1枚半で3億だ」

東大教授にも中央の官僚にもなれる位置にいたが、個人で活動するのを選んだ。

座談の名人で、飛躍する話術は非常に刺激的。当時、自治体の首長で浅田の話にのった勇気ある人物は、美濃部都知事、金子香川県知事、飛鳥田横浜市長など。

いざとなると照れくさい。世界デザイン会議の閉会式でトリの演説を無断欠席。坂倉準三激怒。秘書が急場をフォロー。

故郷は讃岐。香川県高松市から北へ50km行った庵治町。隣に牟礼町。この辺りは花崗岩の産地で有名。イサムノグチと流政之がアトリエを持っていた。

机の上がいつもきれいに整理されていた。

浅田が亡くなったとき、仕事場に使っていた白金のマンションの一室にさくさんの貴重な書類が残されていた。それらは山形にある東北芸術工科大学に「浅田文庫」として公開されている。