開口部 2004.11.29

Wittgentien

これは哲学者ヴィトゲンシュタインが設計した住宅です。実姉のストロンボウ夫人からの依頼でした。所在地はオーストリアのウイーンです。ヴィトゲンシュタインは建築設計のプロではなかったので、アドルフ・ロースの弟子だったエンゲルマンを共同設計者としました。1926年に設計を開始し2年後に竣工しています。この間、ヴィトゲンシュタインはこの住宅の設計と監理だけに専念しました。当時彼は精神的な問題を抱えていて、それを心配した姉が彼に熱中できる仕事をあてがったようです。ヴィトゲンシュタインの仕事ぶりはたいへんなもので、寸法に対する異様な執着、細かいディテールの徹底した消去など建築のプロから見てちょっと病的なこだわりを見せています。こうした点は哲学者らしいユニークなやり方として受けとられました。建物の外観はロース風ですね。
ヴィトゲンシュタインは1889年生まれですからコルビュジェと同世代です。彼の哲学の特徴は、数学的な正確さと偏見のない思考で森羅万象の真理を追求した点にあります。もともと数学の素養がありましたが、彼は真理を言葉で表現することを目指しました。ヴィトゲンシュタインの著作は論理学の形式をとっています。代表作「論理哲学論考」は次のような定義からはじまります。「1. 世界は成立していることがらの全体である 2. 世界は事実のよせ集めであって、物の寄せ集めではない」このような厳密な記述は数学のようです。彼は言葉や記号が意味することへの徹底的な疑問に基づきながら、ものごとの整合性を検証してゆきます。そして最後に「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」という有名な一節を記してこの本を結んでいます。
こんな感性の哲学者が設計した建築です。プランニングや材料の使い方はオーソドックスですが、寸法に対して非常識なほどのこどわりを見せています。窓、扉、把手、暖房機具など工場生産の建具を精密機械と同じ細かさで設計したのです。また、立面図における開口部のプロポーションやその位置、展開図における柱梁の分割、天井の高さなどを比例にもとずいて厳密に決定しています。わずかな誤差が気に入らず、完成した部屋の天井を壊してもう一度作り直させたというエピソードが残っていますね。実際、施工を請け負った職人たちが常軌を逸したデザイナーの注文に当惑したという証言もありますね。彼の設計には「にげ」がなかったようです。
「空間とはいわば1つの可能性であって、幾つかの可能性からなるものではない」と言う彼の言葉はこうしたヴィトゲンシュタインの建築への姿勢を考える上で示唆的です。建築家は普通、自分がデザインした空間が多様な可能性をはらみ、メタレベルにおいては複数の意味が生まれることを期待するものです。しかし、ヴィトゲンシュタインはこれを否定したと考えられないでしょうか。彼は建築や空間のデザインについていろいろ語りましたが、それは建築家の言葉使いではありませんでした。彼の関心は数字と比例を使って、美しいかたちを厳密に追求することだったのです。職業的建築家なら例えば開口部について、この部位がもつ特別な意味やさまざまな働きなどを語りたくなるものです。しかしヴィトゲンシュタインはこれを拒否したのです。
このように、ヴィトゲンシュタインは職業的建築家たちが好きなメタフォリカルな語り口に一石を投じました。メタレベルでの物の言い方がいかに不正確か。どれだけ凝り固まった観念や偏見に囚われて建築を考えているか。「開口部には何の意味もない」とヴィトゲンシュタインの設計したストロンボウ邸は語っているような気もします。