自然と人工 2004.10.08

大自然

自然の背後には「大自然」がある。そして人工の背後には「人間」の存在がある。このような断言からこの話を始めましょう。ここで「大自然」も「人間」も概念であり、イメージであることに注意してください。
さて、ただ「大自然」といってもつかみどころがありません。そこで「大自然」をあえて映像化したのがこの写真です。高くて険しい山々と谷。崇高な自然。このような未開の原野の中に「大自然」が見いだされると考えてみましょう。
フランスの哲学者ミッシェル・フーコーは「言葉と物」で「人間」についてきわめて興味深い考察を行っています。それによるとフーコーは「人間」は「われわれの思考の考古学による発明品にすぎない」。「人間」は「18世紀の曲り角で古典主義的思考の地盤がくつがえされた時」に生じたものである。したがって、18世紀と同じ変化がおきれば「人間」は消滅する。フーコーは「言葉と物」を次のような一節で結びました。
「人間は波打ちぎわの砂の表情のように消滅するだろう」
このように「人間」もまた「大自然」と同じように人類が生み出したフィクションと考えることができるでしょう。そしてフーコーが言う「18世紀の曲り角で古典主義的思考の地盤がくつがえされた時」に「大自然」も生じたと言えそうです。なぜなら「大自然」と「人間」は表裏一体の概念と考えられるからですね。あるいは「人間」の外側が「大自然」と言っていいかも知れません。「大自然」は「人間」がどうしても内部化できない何かです。無限の存在として感じられるものです。こうしたイメージを高くて険しい崇高な山々に投影することで、とりあえず「大自然」の存在を定着しようとするわけです。実はこのイメージ、18世紀のものです。具体的にはアルプス山脈です。当時登山ブームがおこり、アルプス山脈はアタックの対象でした。話は飛びますが、フランスの幻視の建築家ブレやルドゥーに影響を与え、メガロマニアックな建築物のドローイングを描かせたのもこのイメージだったのです。