15 中国へ入った日本の熟語

ken1062014-10-23

日本は明治維新を成功させると中国文化から欧米文化に乗り換えた。

1868年、明治元年、10月、明治天皇が京都から江戸へ行幸して、江戸は「東京」となった。

日本政府は強い外圧の中で、欧米列強国から出来るだけ多くのことを、一刻も早く学び取ろうと懸命だった。そしてわずか30年も経たずして清国との戦争に勝利した。このときイギリスの調停案を拒否したり、天皇が広島に移って指揮を取ったり、頑張る日本の姿が見える。せっかく取った遼東半島をロシア(おまけのドイツ、フランス)に横取りされたりもした。(三国干渉)

この時期、欧米で多くを学んで帰国してきた留学組は、国内の明日を担う人材に、どうやって自分が得た知識や経験を伝えるか、大いに悩んだようだ。結果、彼らは新しい言葉を考案し、漢字を組み合わせてオリジナルの熟語を作り出したのだ。これまでの漢文訓読体に依存しない、欧文直訳体による原文の翻訳を行ったのだ。

人民、社会、主義、現代、改革、開放、同志、革命、闘争、運動、進歩、民主、思想、理論、階級、批評、計画、学校、学生、体操、国際、代表、論文、現実、常識、理想、伝統、保健、栄養、出版、電波、業務、作用、意識、進化、工業、広場、入口、出口、場合、取消

これらは全て、当時の日本人が考案した熟語である。その数、700〜1000語といった感じの模様。日本はこれらの言葉を使って「近代化」を進めたのである。

日本との戦争に負けた清は、中華思想の桎梏はさておき、近代化に大成功した日本を手本にして欧米から学ぶ姿勢を見せた。多くの人材を日本に送り込んできた。そのとき、日本人が考案した欧文直訳体の熟語をそっくり持ち帰ったのだ。現代の中国語の一部にそれらを見ることができる。

中国の「近代化」は日本経由だった側面が大きい。