そして広島計画

「いくつかの経験」丹下健三 より

しかし、こうした経験を通じて、私たちはいかに建築家がこの復興にとって無力であるかをひしひしと感じざるを得なかったのです。焼けこげたコンクリートの建物が点在するだけの焼土と化した国土の姿をみて、私たちはちょうど白い紙の上に新しい都市を描くような夢と期待をもっていたのです。しかし、こうした都市はそれぞれの焼土の背後に政治的な、経済的なそして社会的な分厚い現実の層が横たわっていることを知ったのです。都市は計画によってではなく、その現実の力関係によって再建されていきました。

当時たてられた計画がそのまま実現したのはほとんど例外的なケースにおいてだけであったといえましょう。名古屋はその稀な例であったかもしれません。広島も100m 道路とその中心部にある平和公園だけが、その例外的な計画の実現であったといえましょう。こうした実感を私は1945年の建築学会誌に「建設をめぐる諸問題」として寄稿しました。

1949年に広島は「広島平和記念都市建設法」の国会通過と前後して、平和都市としての性格を明らかにし、その中心施設として、爆心地であり市の中心部である中島の三角州を平和公園とし、そこに平和会館を建設するために競技設計の公募を行うことになりました。この広島計画の経験は、その後の私たちにとってかなり重要な意味をもつことになりました。



私たちは建設省の前身であった戦災復興院の委託をうけて、広島市広島県に協力して広島復興計画のための基礎調査と土地利用計画に参画する機会にめぐまれた。都市再建にあたって私たちが考えたことは、ここを平和記念都市として創り上げるということであり、多くの議論のあと、爆心地であった中島地区を公園として整え、そこを平和公園とし、そこに原爆被害者を記念する平和施設をつくるということ、市の中央を東西に走る100m道路平和大通りとして建設して都市再建のシンボルにするということであった。