東京計画−1960 その1

「いくつかの経験」丹下健三 より

CIAMの第10回会議ー1959年ユーゴスラビアのデュブロブニクで開かれたーのころからすでにCIAMの思想と方法論に反省が現れはじめました。このCIAMは外の敵と戦わなければならなかったのですが、現在のCIAMの戦いは内に対してはじまっているのです。そうしてCIAMを正しい方向に再建し、再組織するための委員としてスミッソン夫妻、バケマらがこのCIAMで選ばれました。


Alison Smithson Peter Smithson

あとで彼らのグループをチームXと呼ぶようになったのですが、彼らからの連絡がしげしげとやってくるようになったのは1959年に入ってからでした。彼らは1959年の秋に、新しいCIAMの会議をオランダのオッテルローで開く準備をはじめておりました。そこで、アソシエイションとかクラスターとかモビリティといった概念が語られるようになりました。


Otterlo Netherlands September 1959

また、日本でも1957年ごろから建築、インダストリアルデザイン、それとグラフィックデザインの幅広い層で1960年を目標に世界デザイン会議を開く準備をはじめましたのは、こうした問題意識の転機にあったからだといえましょう。こうしたデザイン会議の準備を通じて多くの友人たちと話し合う機会をもつことができたこと、またオッテルローの会議に出席してチームXの仲間たちやルイス・カーンなどと会う機会をもったことは、私たちの問題意識をより共通なものとし、またよりリアルなものにするのに役立ったように思います。

そのすぐあと、ヨーロッパからアメリカに渡り、MITで4ヶ月に渡って、そこの5年学生とボストン湾上の25,000の人のための住居単位の研究をしましたが、それはひとつには、そのころ私が考えはじめておりました東京計画ー1960へのひとつの準備でもあったのです。

そこで成長と変化、長期のサイクルと短期のサイクルの結合方法、メイジャー・ストラクチャーとマイナー・ストラクチャーの組織づけとその取りかえのシステム、ヒューマン・スケール、さらにスーパー・ヒューマン・スケールにいたるシークエンシャルな構造づけ、さらに都市的コミュニケーション空間の建築への浸透、建築内部のコミュニケーション・スペースの組織づけなどといった問題を、自分なりに明らかにして行くのに、雑務から解放されたボストンでの4ヶ月は大変役に立ったように思います。