ギリシャのアゴラ

「いくつかの経験」丹下健三より

時代は日本の中国侵攻の段階から太平洋戦争へと突入し、平和的な意味での建築の仕事はだんだんなくなっていきました。私が前川国男先生の事務所からふたたび大学院にもどったのは、太平洋戦争のはじまった年の暮だったように思います。都市計画あるいは今の言葉でいえばアーバンデザインの勉強をしたいと考えたからでした。私は何から手をつけてよいのかわからなく、迷路に入って行くように迷い込みました。泥沼に入って行くように未知の領域にはまり込んで行きました。



akropolis at Pergamon


そのような迷いのなかで、ようやく定まりはじめた目的は、ふたつだったように思います。ひとつは、ギリシャ都市のアゴラでした。それは市民が私から出て社会につながって行く集会であり、またその集まりの場所としてー今の言葉でいえばコミュニケーションの場としてーすぐれた空間像を示しているように思えたからでした。当時それに触れた書物もなく、イギリスやドイツの地誌学者や歴史家たちの研究から断片的な記録を集めて、自分なりにイメージをつくる仕事をしておりました。






もう一つのテーマは都市におけるモビリティのことでした。とくに通勤現象をたよりとして、都市において人々がどのような動きをするか計数的に確かめようとしました。私にとっては、こうした人びとの動きを見ることによって、都市の構造を理解することができると考えたからでした。

戦争が終わったとき、東京をはじめ日本の多くの都市は焼土と化しておりました。そのころ、私たち若い建築家はチームを組んで戦災都市の土地利用計画の調査立案をそれぞれ分担することになり、私は広島高等学校を卒業した関係もあって、チームを組んで広島を訪ねることになりました。私たちはさらに引きつづいて前橋、伊勢崎、福島、稚内など多くの都市の土地利用計画に参加する機会をもちました。これらは1946年から47年にかけてのことだったと思います。


Temples of Apollo at Delphi