16 高度経済成長の後どうした

ken1062014-10-24

所得の「欧米並み」が達成されたとき、我々、日本人はどのようにして豊かに暮らすか、誰も考えていなかった。

こともあろうに、せっかく努力して豊かになった社会で「石油が枯渇する」とか「ゴミが溢れる」「地球が温暖化する」などと言い出した。

日本の経済成長は前半、年平均9%、後半4.5%の成長率だった。一方、欧米は成熟社会に入っており成長率は2%程度。日本経済がいかに高度成長したかが分かる。

日本は高度成長が終わり「標準的な伸び率」になったら、目標達成を祝い「欧米並みの生活」をすべきだったのではないか。「1ヶ月のバカンス」が当たりまえの。

しかし、現在でも日本人は節約と過労を続けている。アメリカは「エコ」や「温暖化対策」などはやっていない。

我々は、ここでふっと思う。アメリカは余裕の生活ができるだけの強国で、日本はまだまだ貧乏で努力が足りないと。しかし、これは本当だろうか?

日本の高度成長が終わったとき、どうやって豊かに暮らすか、基本プランを作っておけばよかった。我々はなにをやっていたのだろうか。

武田邦彦氏のブログを参照しました。

写真はアメリカのBretton WoodsにあるMount Washington hotel

2013年主要国の経済成長率 %
日本 1.52
中国 7.70
アメリカ 2.22
イギリス 1.74
ロシア 1.30
ドイツ 0.53
フランス 0.29
オランダ -0.72
イタリア -1.85
ギリシア -3.86
インド 5.02
ブラジル 2.49

15 中国へ入った日本の熟語

ken1062014-10-23

日本は明治維新を成功させると中国文化から欧米文化に乗り換えた。

1868年、明治元年、10月、明治天皇が京都から江戸へ行幸して、江戸は「東京」となった。

日本政府は強い外圧の中で、欧米列強国から出来るだけ多くのことを、一刻も早く学び取ろうと懸命だった。そしてわずか30年も経たずして清国との戦争に勝利した。このときイギリスの調停案を拒否したり、天皇が広島に移って指揮を取ったり、頑張る日本の姿が見える。せっかく取った遼東半島をロシア(おまけのドイツ、フランス)に横取りされたりもした。(三国干渉)

この時期、欧米で多くを学んで帰国してきた留学組は、国内の明日を担う人材に、どうやって自分が得た知識や経験を伝えるか、大いに悩んだようだ。結果、彼らは新しい言葉を考案し、漢字を組み合わせてオリジナルの熟語を作り出したのだ。これまでの漢文訓読体に依存しない、欧文直訳体による原文の翻訳を行ったのだ。

人民、社会、主義、現代、改革、開放、同志、革命、闘争、運動、進歩、民主、思想、理論、階級、批評、計画、学校、学生、体操、国際、代表、論文、現実、常識、理想、伝統、保健、栄養、出版、電波、業務、作用、意識、進化、工業、広場、入口、出口、場合、取消

これらは全て、当時の日本人が考案した熟語である。その数、700〜1000語といった感じの模様。日本はこれらの言葉を使って「近代化」を進めたのである。

日本との戦争に負けた清は、中華思想の桎梏はさておき、近代化に大成功した日本を手本にして欧米から学ぶ姿勢を見せた。多くの人材を日本に送り込んできた。そのとき、日本人が考案した欧文直訳体の熟語をそっくり持ち帰ったのだ。現代の中国語の一部にそれらを見ることができる。

中国の「近代化」は日本経由だった側面が大きい。

14 大地震と富士山噴火

ken1062014-10-22

■元禄大地震

・大正関東地震(関東大震災)の1つ前に発生した同規模の地震。

・1703年12月31日午前2時頃、発生

・震源は千葉県の房総半島沖合。

・江戸の被害は少なかった。(将軍は徳川綱吉)

・小田原あたりの被害が大きかった。

・被災者約3.7万人とされる。

・1週間後に江戸大火が発生。震災後の悪環境で被害が拡大。

・3月に赤穂浪士の切腹があった。前年の晦日に討入り事件があった。

・社会不安鎮静化のため1704年4月、「宝永」に改元した。

■宝永大地震

・最近の富士山噴火の直前に発生した地震

・1707年10月28日13時45分頃、発生(この49日後に富士山噴火)

・震源は和歌山県、紀伊半島の沖合。

・現在の静岡、愛知、三重、和歌山、高知あたりが被害大。(将軍は徳川綱吉)

・高知に高さ20mを超える津波が来た。大阪も広範囲でまちが浸水し、2万人を超える死者がでた。

■宝永大噴火

・富士山の噴火。現在からさかのぼって一番最近のもの。

・1707年12月16日午前10時頃から12月31日夜にかけて数回にわたり噴火。(将軍は徳川綱吉)

・江戸に大量の降灰。昼間でも暗くなり、燭台の明かりをともす。

・過去の噴火歴

800年:延暦大噴火
864年:貞観大噴火
937年:噴火
999年:噴火
1033年:噴火
1083年:噴火
1435年:噴火
1511年:噴火
1707年:宝永大噴火
以下噴火なし

写真:地球資源論研究室

13 関東大震災1923

ken1062014-10-21

関東大震災」を引き起こした大正関東地震。写真は震度の分布を示している。オレンジが震度6弱、赤が震度6強、茶色が震度7。震度の分布を見れば分かるように、この大地震は神奈川県が最も揺れたのだ。

発生したのは1923年9月1日土曜日、午前11時58分。

震源相模湾の沖合(北緯35.1度、東経139.5度)(三浦半島の先端から南西へ約20kmの地点)

マグニチュードは 7.9

死者10.5万人。そのうち火災による死者9.2万人(東京で6.6万人、神奈川で2.5万人)。建物の倒壊による死者1.1万人。

津波相模湾沿岸、千葉県の房総半島沿岸に発生した。最高高さ10m。

地震が発生したとき、先頭に立つべきリーダーが不在だった。ときの内閣総理大臣加藤友三郎は8日前に急死していたのだ。加藤は海軍大将から総理になった人物だった。9月2日に山本権兵衛が2度目の総理となって事態の収拾に当たった。ちなみに、阪神・淡路大震災のときは村山富市東日本大震災のときは菅 直人。毎回、頼りないリーダーのときに震災に見舞われるようだ。

9月27日、山本は帝都復興院を設置し、後藤新平を総裁とした。後藤の指揮のもと帝都復興計画が提案された。遷都はしない、予算は30億円必要、土地を買い上げて欧米の都市を範とした理想的な都市計画を行う。こうした基本方針を掲げ力強くスタートしたが、山本内閣がわずか3ヶ月で総辞職。帝都復興院は内務省の外局(復興局)に格下げされた。

したがって後藤新平の帝都復興院が存在したのは実質4ヶ月程度だった。復興局は金と利権にまみれた伏魔殿となり汚職の温床に成り下がった。

震災復興で実現したこと

鉄筋コンクリートの小学校「復興小学校」がつくられた。ドイツ表現主義の亜流、日本の分離派の影響。という感じの良質なデザインだった。

耐震設計における水平方向の地震力が法律に盛り込まれた。

同潤会が設立され、耐震耐火に配慮された庶民住宅の供給が行われた。16の同潤会アパートがつくられた。昨年、最後の1つが取り壊された。

その他、横浜の山下公園、東京下町エリアの道路・インフラ他、色々。

12 日本国王になった義満

ken1062014-10-20

足利義満は中国、明と正式な交易するために大胆なことを実行した。

それは自分を明の皇帝から日本国王に任じてもらい、明への朝貢という形で両国の交易を安定的に行うことだった。

そして、紆余曲折を経て義満はこれを実現した。西暦1400年頃のことだ。朝廷や天皇の存在感を曇らせる程の権勢があった故の曲芸だが、やはり凄い。

この義満の実績を踏まえると、後年、織田信長ローマ教皇から日本国王の位を得て、南アジアに領国を広げようとした。というのは真実味がある。

ところで「明」とはどんな国だったのか。明はモンゴル帝国「元」を滅ぼした国だ。初め南京を都とした。中国の歴史で南から起こって大きく領土を取り、皇帝を頂いたの「明」だけのようだ。

義満を日本国王に任命してくれたのは2代皇帝の建文帝だ。彼は初代皇帝の孫で、存在感の薄い人物だった。24歳で叔父に帝位を簒奪され命を絶たれている。叔父は3代皇帝、永楽帝となり、北京に都を移して「明」を巨大帝国に押し上げた人物だ。建文帝は初代と3代の大物皇帝に挟まれた小さい存在だったのだ。

明の建国は1368年。日本では義満が10歳で将軍に就任した年だ。彼は「元」が滅び「明」が建国される様に大きな注意を払い、かの地の情勢を把握していただろう。「倭冦」からも情報を得ていたに違いない。

1394年、義満は出家して朝廷の位から自由になった。そして明では建文帝が1398年に即位。1401年に義満を日本国王とした。

義満が始めた明との交易は「勘合貿易」と呼ばれ、150年ちかく続いた。この制度をつくった立役者の義満は1408年に亡くなった。

11 鎌倉の軍事政権

ken1062014-10-17

鎌倉はかつて日本の「政府」が置かれた場所だ。京都から遠く離れた鎌倉の地に日本の「政府」が成立したのは画期的だった。

それは源頼朝の巧みな政治力によって、京都の朝廷から徐々に権力を奪うことによって実現した。

源頼朝のすごい所は、武士が日本を実効支配するための方法を編み出して制度化したことだ。「武士の頭領である自分は朝廷から日本を治めることを委譲されている」という形を作ったのだ。これは徳川慶喜大政奉還まで続いた。

もともとは朝廷の警護が任務だった武士が政権の担い手になったことは、日本の支配階級が貴族から武士へ変わったことを意味する。これを最初に実現したのは平清盛だが、朝廷から独立した状態で制度化したのは源頼朝だ。その後700年近く武士の世の中が続いた。彼の影響は非常に大きい。

10 倭国から日本へ

ken1062014-10-16

「日本」を名乗るようになったのは西暦700年頃。それまでは倭国だった。周辺には百済高句麗新羅、唐といった国があった。

倭国は、白村江(はくすきのえ)の戦で唐・新羅の連合軍に大敗して朝鮮半島の権益を全て失い、本土を侵略される危機にあった。防人(さきもり)を置いたり、遷都を行って必死にもがき、律令国家に生まれ変わることができた。

660年 百済(倭国の友好国)滅亡
661〜663年 ★白村江の戦(天智天皇の時代)

663年〜 倭国、唐・新羅の侵攻に備え九州、瀬戸内海周辺の防備を固める
667年 ★難波から内陸の近江京へ遷都
668年 高句麗(唐の敵対国)滅亡
671年 天智天皇、急死

672年 ★壬申の乱天武天皇が即位、新国家建設を進める、飛鳥に遷都
676年 新羅朝鮮半島を統一
686年 天武天皇崩御

690年 持統天皇(女帝)、即位
694年 藤原京に遷都
701年 ★大宝律令、制定(侵略の危機を脱し「日本」を名乗る)

710年 平城京へ遷都(元明天皇)、奈良時代

★は注目ポイント。