23 戦後の混乱期に浅田孝

ken1062014-11-01

浅田孝 1921.3.19 〜 1990.12.4

「上の人は時間がないんだから厚い資料なんか読まない。一枚でわからせるのがプロの仕事だ。」

「厚い資料を作るのは素人でもできる。」

「5cmで300万、2.5cmで3000万、1枚半で3億だ」

東大教授にも中央の官僚にもなれる位置にいたが、個人で活動するのを選んだ。

座談の名人で、飛躍する話術は非常に刺激的。当時、自治体の首長で浅田の話にのった勇気ある人物は、美濃部都知事、金子香川県知事、飛鳥田横浜市長など。

いざとなると照れくさい。世界デザイン会議の閉会式でトリの演説を無断欠席。坂倉準三激怒。秘書が急場をフォロー。

故郷は讃岐。香川県高松市から北へ50km行った庵治町。隣に牟礼町。この辺りは花崗岩の産地で有名。イサムノグチと流政之がアトリエを持っていた。

机の上がいつもきれいに整理されていた。

浅田が亡くなったとき、仕事場に使っていた白金のマンションの一室にさくさんの貴重な書類が残されていた。それらは山形にある東北芸術工科大学に「浅田文庫」として公開されている。

22 「国家」や「国民」という概念

ken1062014-10-31

「国家」や「国民」という概念はフランス革命をきっかけに新しく作られたものだ。

それまでは、王や貴族が土地を個人所有し、そこに住む人々はただ搾取されるだけの存在だった。

「国境」の概念は存在せず、フランスのルイ王家やオーストリアのハプスブルグ王家の私有地がヨーロッパ大陸霜降り状に分布していた。言葉や文化、人種が同じエリアが同類の集まりとして「国」をなしていた。

しかし革命によって王権停止、王族処刑、全財産没収を断行して、彼らが数百年間所有してきた土地は全て市民のものとした。市民は自らの意思で社会制度を変革し、古い殻から脱皮した。

そして彼らは自分自身の「国家」をもち、フランス「国民」となった。

ここで「国家」は自分たちの手で守らなくてはならないという発想が生まれてくる。

ナポレオン軍の兵士はみんな自分たちの「国家」を自分で守るという思いを持って戦った。彼らは死ぬまで戦う。これが強さの秘訣だった。

21 東を向いていたイタリア

ken1062014-10-30

■15世紀の大航海時代、欧州でイタリア人だけが東方を向いていた。

■当時、東方のユーラシア大陸はモンゴル帝国の支配下にあった。

■ベネチア出身のマルコポーロはモンゴル帝国から好意的に迎えられた。

■当時、ベネチアは地中海を支配しており強力な海軍があったにもかかわらず、植民地争奪戦には加わらなかった。

■一方でスペイン、ポルトガル、オランダ、イギリスはどこも西方を向いていた。

■彼らは強力な軍隊をもって大西洋に出て、植民地争奪戦を繰り広げた。

■彼らが西へ向かったのには理由がある。それは東を支配するモンゴル帝国と衝突するのを避けたからだ。

19 アメリカという国

ken1062014-10-28

■1776年、イギリスから独立してアメリカ誕生■西部開拓でインディアンを掃討開始、19世紀末までに完了■1836年、アラモの戦いでメキシコからテキサスを収奪■1867年、クリミア戦争で疲弊したロシアからアラスカを買収■次に太平洋へ進出、まず1898年、ハワイ王国を滅亡させて自国に編入■1898年、メイン号事件でスペインに宣戦してフィリピン、グアム収奪■1944年、極東に位置する日本を経済封鎖で戦争に誘導、東京大空襲、原爆投下により「日米戦争」に勝利、米軍常駐、サイパン収奪、太平洋を支配■1964年、トンキン湾事件ベトナムに宣戦、結果は失敗■2003年、大量破壊兵器保持疑惑でイラクに宣戦、フセイン体制を転覆

アメリカは西部開拓で養ったフロンティアスピリットを抱き、自国を飛び出して、太平洋を縦断し、中国、日本、朝鮮、ベトナムときて、21世紀はアフガニスタンを超え中東にまで支配を及ぼしている。

アメリカは大きく見ると、建国以来ほぼ戦争を止めたことはない。

アメリカの庶民はカジュアルで陽気で公平だ。多民族国家で外見も多様だ。

アメリカを作ったオリジナルの人々は外から来た。先祖が外にいる場合が多い。アメリカは人工的に作られた実験国家の側面がある。

メイン号事件、真珠湾トンキン湾事件など全て戦争をするためのアメリカ政府の謀略のようだ。

2001年9月11日、ニューヨークのシンボルビルを反米に破壊された。初めて本国をやられた。計り知れないインパクトがあった。

地球温暖化」「二酸化炭素削減」などにより戦略的に世論を誘導して石油利権を確保。

現在の大統領はハーフ黒人のバラクフセインオバマ。ハワイ出身。

18 セブ・コーの招致プレゼン

ken1062014-10-27

セバスチャン・コー(Sebastian Coe) が行ったオリンピック誘致のプレゼンテーションは素晴らしかった。

それは2012年の開催地を決めるIOC総会(2005年、シンガポール)で行われた。

決定投票の結果、彼が誘致リーダーを務めるロンドンが開催地に選ばれた。大本命のパリを破っての勝利だった。

説得力と情熱に溢れたプレゼンテーションをしたセブ・コーという一人のリーダーの存在が、イギリスに運を引き寄せたのだ。最後の一押しはヒューマンパワー、という真実を思い出させてくれる出来事だった。

オリンピック開催は東ロンドンを再生する一過程である、という位置づけが秀逸だと思う。まちづくりはオリンピックが終了した現在も続いている。

計画やストーリーの射程距離が長いところが東京2020と違う点だと思う。

17 ナポレオンの学術調査団

ken1062014-10-26

1798年から1801年にかけてナポレオン率いるフランス軍はエジプトに戦争を仕掛けた。目的はイギリスのインド支配を妨害することだった。アブキールAboukir港から上陸してアレキサンドリア、カイロを3週間で陥落させた。

この戦争に150人を超える学術調査団が同行した。団員は当時フランスで一流の頭脳だった。専門分野も多岐に渡り、物理数学、化学、建築、絵画彫刻、医学、植物学、文学、音楽、などなど。よく名前があがる有名人にフーリエ級数のジョゼフ・フーリエ Jean Baptiste Joseph Fourier、図学のガスパール・モンジュ Gaspard Monge などがいる。

この学術調査団が現地のフィールドワークで得た膨大な情報は、当時のヨーロッパ文化に非常に大きなインパクトを与えた。

「エジプト誌」「ロゼッタストーン」「王家の谷」「カルナック神殿」他多数。

戦争に一般の学者や芸術家を大人数連れてゆき、現地の文明を調査したこと。それが後年、実りある成果を生んだこと。