04/75 安土城の「天主」

ken1062006-12-25

天守閣の建築型をつくったエポックメイキングな例として安土城の「天主」を取り上げてみます。この建築は本能寺の変のあと焼失しましたが、現在いくつかの復元案が知られていますね。ちょっとふれておきますが、天守閣の「てんしゅ」という漢字は安土城に限って「天主」と表記しているようです。
さて、安土城の「天主」と言えば、金閣の上に法隆寺の夢殿を載せて、青色の瓦で葺いた高層建築。琵琶湖を望む見晴らしのいい丘の上に聳え立つ権力の象徴。そんなイメージが定着しています。この発想は信長の独創だったようですが、西欧から来た宣教師たちのアドバイスに着想を得ていたかも知れません。西欧では各地で教会の尖塔や鐘楼などの高層建築がつくられていました。安土城の「天主」の内部に巨大な吹き抜けがあったという仮説も西洋建築の影響と考えれば合点がいきます。
「天主」は記録によると、外観は5層、実際は7層です。鹿苑寺金閣の上に法隆寺の夢殿を載せた様な意匠だったと推定されていますが、夢殿の平面形は8角型ですから、つなぎ目がどうなっていたのか、興味深いところです。高さは石垣の上から測って30数m。石垣の高さは約10m。中央の「大手道」は一直線につくられています。
1576年4月に石垣の工事が開始され、3年後に「天主」までが一応の完成をみています。西洋建築では考えられないスピードです。宣教師たちはどう思ったのでしょうか。特に2年以上はかかると言われた石垣工事が、わずか7ヶ月で完了しています。
この石垣にしても「天主」にしても、安土城の工事は戦争のようだったのでしょうか。超突貫の土木工事。日本の大工が一度もやったことのない型破りな意匠。室内の装飾は狩野永徳が描きましたが、日本と中国の折衷絵画だったようです。