51/75 発掘がもたらしたもの

ken1062007-03-12

遺跡の発掘現場です。こうした地道な調査を積み上げることで、過去の建築物の詳細が具体的に明らかになっていく訳ですね。我々が知っている「建築様式」は、こうゆう地道な作業の成果品です。調査、研究によって蓄積したデータを基にして「建築様式」は「書かれた」と考えていい部分がありますね。
ところで、発掘現場が政治的な理由で容易に立ち入れないようなことも起きています。例えばギリシアがそうですね。18世紀のギリシアはトルコ帝国の支配下にあり、ヨーロッパの研究者は古代ギリシア建築のあった場所に立ち入ることが困難でした。アテネアクロポリスの丘も荒れ果て、パルテノン神殿はトルコ軍の武器庫にされていました。爆撃で神殿の一部が失われたという悲惨なエピソードもあります。
しかし18世紀末になると、ロシア軍がトルコ帝国領内に侵攻し、オスマントルコの支配力は弱まっていきました。そんな中、ドイツはロシアと敵対していたので、トルコ帝国にとってドイツは友好国でした。したがってドイツ人ならば帝国の領内に入ることが容易だったのです。
こうした理由で、ドイツ人考古学者ヴィンケルマン Johann Winckelmann(1717-1768) はギリシア建築の発掘調査を存分に行うことができました。当時、建築家や考古学者は「建築様式」の原点をギリシアに求めていましたから、ヴィンケルマンの研究は大きな関心を集めました。
遺跡の発掘が進んだことは、建築様式を確立させた他に、美術館の建設ラッシュを引き起こしました。ヨーロッパ各国は国の威信をかけて立派な美術館を建設し、古代世界の発掘品をコレクションして、一流国の証(あかし)としました。
大英博物館やベルリンの国立博物館は1750年代、ルーブル美術館は1790年代に設立されています。イギリス、ドイツ、イタリア、フランスなどヨーロッパ列強国は、自国の美術館に古代美術のコレクションを納めるため、現地で発掘した彫刻や建物のレリーフなどを争って持ち帰っています。またお互いの国にあるコレクションの争奪戦を繰り広げました。
ナポレオンはイタリアを占領すると、躊躇することなくイタリア国内にあったギリシアの美術品を持ち帰っています。また、英国貴族のエルギン卿はパルテノン神殿を飾っていた多くの彫刻やレリーフを、トルコ帝国と掛け合ってロンドンの大英博物館に持ち帰りました。
今日、我々がロンドンやパリで古代彫刻の実物を見ることができるのは、過去にこうした行為があったからですね。