トニー・ガルニエ

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トニー・ガルニエ 
Tony Garnier (1869-1948)

トニー・ガルニエはフランスの建築家です。「工業都市」という都市計画で知られた人物です。

トニー・ガルニエはリヨンに生まれました。両親は絹織物の職人です。トニーは成人しても背丈がとても低く、長いひげを蓄えた独特な風貌でした。運動が全く出来ず、ゲイだったという話も残っています。

そんなトニーはリヨンのボザールで建築を学び、20歳のとき才能を認められてパリのボザール本校に移りました。そして、ここに10年間在籍することになります。トニーの目標はローマ大賞をとることでした。

30歳のとき、年齢制限ぎりぎりで念願のローマ大賞を獲得しローマ行きを勝ち取ります。課題は国立銀行でした。そしてトニーはローマで5年間を過ごしています。

ローマでのトニーは大賞受賞者が行うべき活動を怠り、自分のプロジェクトに専念していたようです。おそらく、帰国後発表するつもりだった「工業都市」の構想を練っていたのでしょう。

フランスに帰国すると、ローマでの態度がやはり災いしてパリのボザールから冷遇されています。結局、故郷のリヨンに戻って事務所を開くことになりました。リヨン市長からの援助もあったようです。2年後には母校リヨンのボザールで教授に就任しています。

生徒たちは個性的なトニーをカリスマ先生として尊敬していたようです。後年、ガルニエの元から5人ものローマ大賞受賞者を輩出しています。

そんなトニーでしたが、晩年は10年間ほど病床にあって不遇な時を過ごしています。建築家としてのトニー・ガルニエは取り上げるような実作をあまり残していませんね。また論文を書いたり演説を行うこともありませんでした。

そして彼の「工業都市」も発表当初はあまり反響がありませんでした。「工業都市」はガルニエ49歳のとき本として出版されています。最初にガルニエの「工業都市」を評価したのは目先のきくコルビュジェでした。コルビュジェはさっそく自らが主催する雑誌エスプリヌーボーでこの近未来都市を紹介しています。

おそらくコルビュジェの目には、コンクリートと都市計画が結びついたアイディアが刺激的だったのでしょう。トニーはこの計画で建物をコンクリートでつくることにしていたのです。

建築物をコンクリート造とする提案は、この「工業都市」の大きな特徴です。一つの都市全体がコンクリートの建物で成り立っているという発想は、当時としては画期的でした。建物のかたちを自由に造形できる鉄筋コンクリート構造は、新しい施設や都市の創造にふさわしかったと考えていいかも知れません。ちなみに鉄筋コンクリートを初めて実際の建築物に用いて成功したのはガルニエの5歳下のペレでした。

工業都市」のもう一つの特徴はドローイングの美しさですね。彩色された鳥瞰図やパースペクティブな建築物が見事に描き出されています。ローマ大賞受賞者の面目躍如でしょうか。ちなみに敷地は川のほとりにある架空の場所です。人口は35000人が想定されています。全体は工場と生活施設から成り、人々が働く場所である工場と、暮らす場所である住居や生活施設は計画されています。