リシツキー

lissitzky

リシツキー 
El Lissitzky (1890-1941)

Eleazar Markevich Lissitsy

リシツキーはロシアのアーティストです。時代はレーニンの革命が旧体制を大変革した頃。リシツキーの人生も芸術の面で旧制度の変革に捧げられたものでした。彼はロシア・アヴァンギャルドを代表する人物ですね。

リシツキーが20代の時、母国ロシアに社会主義革命が起きます。1914年の第一次大戦で国内は混乱を極め、1917年には帝政が崩壊しソビエトが国家体制の軸に変わって行きました。

芸術の分野でも、古典を否定し過去にとらわれない自由な精神がアーティストの心を捉えます。こうした機運から1920年代には「アヴァンギャルド」運動が沸き起こるのです。

リシツキーはロシア北部スモレンスクユダヤ人街で生まれました。彼は優秀な若者でしたが、ユダヤ人であることを理由に母国ロシアの大学で学べないという苦い経験をしています。19歳のときドイツに渡りダルムシュタット工科大学に入学しました。彼はここで建築を学び、J.オルブリッヒの指導を受けています。

そして1914年の第一次大戦を機にロシアに帰国しますが、母国も3年後にはロシア革命が起きて不安定な時代が続きました。それでもリシツキーは建築家の資格を取り、美術学校の教授を務めながら作家活動を開始します。

リシツキーは1つの原理を追求するより、多様な可能性を応用して変革を目指すタイプだったようです。彼の作品は様々な分野のアーティストと交わることから生まれてきたと考えることができますね。

リシツキーは建築の専門教育を受けた建築家でもありましたが、実現した建物はないようです。しかしドローイングや模型によって実作以上のインパクトを与えたことは事実ですね。

建築以外には、絵画、ポスター、彫刻などの制作、出版活動、展覧会の組織など精力的に行っています。

リシツキーの活動で一つ注目に値するのは、ロシア・アヴァンギャルドの精神を西ヨーロッパに伝えたことです。彼はドイツのベルリンやハノーヴァー、スイスなどに長期滞在し、西側のアーティスト達と交流を深めました。中でもオランダ人のドゥースブルフとは非常に仲が良かったようです。

ドゥースブルフという人物は、オランダの文化シーンにおけるリーダー的存在で「デ・スティル」の中心メンバーでした。「デ・スティル」は絵画や建築の分野で純粋な幾何学形で作品を「構成」することを目指していましたから、ロシアのアヴァンギャルド運動とはパラレルな思潮ですね。リシツキーたちが制作した作品は歴史的に見るとロシア「構成主義」と呼ばれるものです。

リシツキーが西側のアーティスト達と交流したことで、ロシアの「構成主義」とオランダの「デ・スティル」が共振したと考えていいでしょう。

残念なことにリシツキーは30代半ば頃から肺結核を患い健康面でハンディーを持つことになってしまいます。そしてわずか51歳で亡くなりました。