ミース 1886-1969

mies

ミース 
Ludwig Mies van der Rohe
(1886-1969)

ミースはドイツ生まれの建築家です。近代建築の抽象性はミースによって高められ、20世紀建築の一つの大きな特徴をかたちづくったと考えていいでしょう。これは「インターナショナル・スタイル」や「ユニバーサル・スペース」などと関連しています。したがって彼の存在は近代建築を語るうえで欠かすことができません。戦争によって社会が混乱しても、ミースの強い意志はゆらぐことなく高貴な作品を生んだのです。

ミースはオランダに近いまちアーヘンで生まれました。父親は石工の棟梁で彼に建築を教えています。ミースは大学で専門教育を受けていません。19歳のときベルリンに出て建築家に弟子入りしました。まず1年間木造建築を学び、次に2年間家具デザインを学びます。そして最後に当時ヨーロッパで新進気鋭の建築家だったピーター・ベーレンスの事務所に入ります。ここで3年間修行しました。

ミースはベーレンスから多くの事を学びました。まずドイツ古典主義の建築家シンケルへの敬意。これはミースに建築の崇高性を教えました。そして鉄骨構造による設計方法。また工業製品の知識。なによりミースは建築家としてあり方をベーレンスから学んでいます。

25歳の時、ベーレンス事務所から独立し、多くの住宅を設計しました。それらは古典建築風のものです。

20代のミースはベーレンスの他に、オランダのベルラーエとアメリカのフランク・ロイド・ライトに大きな影響を受けています。建物の構造体を見せる材料の使い方、そして流動する空間。後年のミース建築の特徴はここに原点があったのですね。

36歳のときミースはオランダの新造形運動「デ・スティル」から強い刺激を受け、煉瓦造の田園住宅を計画しました。壁の構成だけによって建築が成り立つ可能性が示されています。

43歳のときこれまでの試行錯誤を実作として結実させる世紀の名作をデザインします。バルセロナ博覧会のドイツ・パビリオンです。わずか1年で取り壊されましたが、空間構成や材料の使い方など近代建築の最高峰といっていい作品でした。ここで見られる飛び抜けて高い建設コストと妥協のない建築美の追求は、ミースの建築について回る特徴となり彼のカリスマ性を生み出す一因となっています。

一年後、ブルーノにトゥーゲントハット邸を設計しました。ドイツ・パビリオンで成功した手法を住宅で応用したものです。この住宅は後にアメリカで設計したファンスワース邸と並ぶミースの代表的な住宅建築となりました。

ミースは建築家として集団をまとめてゆく能力にも恵まれていたようです。1927年、41歳のときシュトゥットガルトの住宅展をプロデュースしました。彼は基本プランの作成と全体の取りまとめ役を務めています。また自分でも幾つか設計しました。この住宅展にはグロピウス、コルビュジェ、アウトなどが参加しています。また1930年にはバウハウスの校長に就任しました。デッサウに独自の校舎まで持っていたバウハウスナチス政府の圧力のもとベルリンに移転させ、閉鎖を決定したのはミースでした。1933年のことです。

そして1937年の夏、ミース50歳のときアメリカ合衆国に移住しました。その7年後アメリカの国籍を取得しています。アメリカではイリノイ工科大学の教授として建築活動を続けました。

アメリカにおけるミースの代表作はイリノイ州のファンスワース邸、ニューヨークのシーグラムビルなどですね。後者はフィリップ・ジョンソンが共同設計者となっています。

亡くなる1年前に故郷のベルリンでニュー・ナショナル・ギャラリーを実現させました。不要な要素は一切存在しない徹底的に還元された建築です。83歳のときシカゴで生涯を閉じました。