グロピウス 1883-1969

gropius

グロピウス Walter Gropius (1883-1969)

グロピウスはドイツの建築家です。そして同時に偉大な教育者でもありました。彼はまぎれもなく近代建築の巨匠ですね。1910年代という早い時期に鉄骨とガラス壁の作品を実現し、近代建築のあり方を決定づけています。また新進の教育者として美術学校「バウハウス」で若者の教育を実践し、アメリカに渡ってからはハーバード大学で多くの才能を交流させ育てました。

グロピウスはベルリンに生まれ、ベルリンとミュンヘンの工科大学で建築を学びました。彼の父親と大叔父も建築家です。大学を終えたあとピーター・ベーレンスの事務所に入ります。ベーレンスは当時ヨーロッパで最も進歩的な活動を行っていました。デザインの対象は建築物にとどまらず日用品などあらゆる製品に及ぶ、いわゆるプロダクトデザインを実践していたのです。グロピウスはここで3年間修行しています。

その後独立して自分の事務所を持ちました。その時グロピウスは27歳でした。その3年後にアドルフ・マイヤーと共同でファグス靴工場の設計を手がけ、これが近代建築の金字塔の一つとなる名作になったのです。すでに師匠のベーレンスと肩を並べるようになったと見る事も可能でしょう。

ほどなく第一次大戦が起こり彼は軍役に服しています。その最中、グロピウスはワイマール大公(ワイマールの領主)から芸術学校と工芸学校の校長になることを依頼されました。グロピウスは戦争が終わると2つの学校をまとめて「バウハウス」を創設しました。1919年、彼が36歳のときです。

バウハウス」は新進の学校として大きな影響力をもちました。1926年にデッサウに移転し、この地に新しい校舎を自らの設計で建設します。しかしグロピウスは2年後に後事をハンネス・マイヤーに託して「バウハウス」を離れています。彼はナチスの迫害にあって国外に脱出し、ロンドンに移り住むことになりました。彼が「バウハウス」の校長だった期間は9年間です。「バウハウス」は1933年にナチスによって閉鎖されました。

1937年、グロピウスは54歳のとき米国に移住しました。そしてハーバード大学から建築学科の教授として招かれます。こうして晩年の彼はハーバード大学を拠点にして建築活動を展開することになりました。第二次大戦が終わり、1945年に若手建築家とTAC (The Architects Collaborative) を設立し設計活動の場とします。給与も立場もすべて平等が原則でした。